――その夜。
タナトス神殿の一室で床についていたタナトスがそっと体を起こした。隣で眠っているヒュプノスと異世界の双子神を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、慎重に扉を開けて廊下に出て、足音を殺して静かに中庭に向かった。
青白い月明かりが照らすエリシオンの花園を特に目的も無く歩いた銀色の死神は、美しく手入れされた噴水の傍らに腰を降ろした。水面の月を掬うように手を水に入れて意味も無く水をかき混ぜた。
…俺は子供か。
水面に映った自分の顔を見て思わず苦笑する。
どうにも気持ちが落ち着かず、足元に咲いていた花を片っ端から摘んで噴水に放り込んだ。水面をたゆたう色とりどりの花を眺めながら玩具の船でも持って来ればよかったか、などと思っていると。
「何を子供のようなことをしているのだ、タナトスよ」
「…それはこちらの台詞だ、ヒュプノスよ」
異世界の双子神のために用意してあった船とアヒルの玩具(風呂に浮かべて遊ぶアレだ)を持った弟神の姿を認めてタナトスは楽しげに笑った。
金色の眠り神は常と変わらぬ済まし顔のまま死神に歩み寄ると隣に腰を降ろした。あくまでも真顔のまま、さも当然と言った顔で玩具を差し出す。
アヒルを受け取ったタナトスはゼンマイを巻いて噴水に浮かべた。水に浮いた花を蹴散らす勢いで突進するアヒルを楽しげに見ている兄神を横目で見ながら、ヒュプノスも船のゼンマイを巻いて水に浮かべた。
ゆったりと水面を走る船を目で追いながらタナトスは口を開いた。
「誕生日が楽しみで気持ちが昂って眠れぬなど、一体いつぶりであろうな」
「お前は毎年ではないのか」
「誕生日が楽しみなのは毎年のことだが、眠れないほどというのは久しぶりだと思うぞ」
「…ふむ」
「俺は嬉しくて嬉しくてたまらぬのだ、ヒュプノス」
「…………」
「ほんの、つい先日まで、寝台から起き上がることもままならなかったハーデス様が、皆の先頭に立って我々の誕生日を祝う準備を出来るくらいにまで回復されたということが」
「ああ、そうだな」
ヒュプノスの言葉は短く淡々としていたが、唇が僅かに綻ぶのを見てタナトスはフフンと笑った。
眠りを司る神であるヒュプノスが眠れずに散歩に出ている時点で、しかも玩具まで持ってきている時点で、彼が嬉しさのあまり舞い上がっていることはバレバレなのだ。
噴水の反対側まで突進して壁に当たって止まっているアヒルを見て、タナトスは立ち上がって噴水の中に足を踏み入れた。ひんやりした水が心地よい。タナトスはアヒルを拾い上げて反対側にいるヒュプノスめがけて放り投げた。
心を満たすこの歓びを発散しないと今夜は眠れそうに無いのだが、さてどうしたものか。眠れないならずっと起きていても特に問題はないのだが。
水に濡れて色とりどりの花弁が張り付いたローブを意に介することも無くそんなことを思っていると、噴水の反対側にいたヒュプノスが発進させたらしいアヒルが突進してきて噴水の縁にゴツンとぶつかって止まった。
「…………」
見ると、アヒルの頭には花で編んだ腕輪が乗っている。
タナトスはニヤリと笑って花輪を手首に填めると、足元の花を摘んでザクザクと花輪を編み始めた。間もなく完成したそれを船の玩具に乗せてヒュプノスめがけて送り出す。続いてもうひとつ花輪を作ると、タナトスは手近に咲いている花で一番気に入った一輪を摘んで立ち上がった。
…噴水の反対側に回ると、タナトスが先程船に乗せて送った花輪を手首に填めたヒュプノスもちょうど花輪を編み終わったところだった。視線を花輪に落としたままヒュプノスが尋ねてきた。
「そろそろ眠れそうか、タナトス?」
「ああ、お前がこの花輪に込めた眠りの小宇宙のおかげでな」
「…なら良い」
常と変わらぬ無表情で頷いた弟神の金紗の髪に、タナトスは先程摘んだ花を挿した。
何だ?と言いたげな視線に満面の笑みを見せる。
「誕生日おめでとう、ヒュプノス」
「…………」
「何だ、その顔は。日付はもう変わっているぞ」
「ハーデス様が我々の祝宴の準備をされているというのに、それを待たずに祝いの言葉を言う奴があるか」
「それはそれ、これはこれだ。黙っていれば問題ない」
「…そんな言い訳があるか、馬鹿兄貴」
ヒュプノスは大袈裟に溜息をつくと足元の花を一輪摘んで立ち上がり、わざと素っ気ない所作でタナトスに花を差し出した。
「誕生日おめでとう、タナトス」
楽屋裏
西暦2012年6月初旬、聖域。
アテナに招集をかけられた聖闘士数名が教皇宮の会議室に集まっていた。ちなみに顔触れは蟹座のシラー、牡牛座のハービンジャー、天秤座の玄武、双子座のパラドクス、魚座のアモール、そして元蟹座の黄金聖闘士マニゴルド、星矢、一輝・瞬兄弟の9人である。タナトス神と交流の深いメンバーだけが集められたこと、双子神の誕生日が近いことから、双子神の誕生日イベントに絡む用件だろうと皆が察しをつける中、夢神オネイロスを同伴してアテナが姿を見せた。何故オネイロスが?と怪訝そうな顔をしつつ会釈する皆に挨拶を返して、椅子に腰を降ろした沙織がにこりと笑って口を開いた。
「あなた方を招集した理由は既に察しがついているかと思いますけれど…双子神の誕生祝賀会に関することですわ。来る6月13日、冥界エリシオンで開催される双子神の誕生日パーティーへの招待状が届いておりますの」
「あーやっぱりな」
「時期的にそれだと思ったぜ」
「今回は異世界の双子神様もお出ましになるのですよね」
「ええ。ですから皆さん、プレゼントは四人分用意してくださいね。尚、13日はパーティー終了後エリシオンに一泊して、14日は異世界に行ってあちらの世界の双子神誕生日パーティーに参加することになっておりますわ。13日は、プレゼントだけでなくお泊まりグッズも忘れずに持ってきてくださいね」
はーい。
最早この程度のイベントは慣れっこになった皆が明るく返事をすると、アテナは楽しげに笑って隣に座ったオネイロスを見遣った。
「では次に、オネイロス殿からお話がありますわ」
「珍しいな、アンタが地上に来るなんて」
「イケロスとかパン太は時々タナトス様にくっついて来るけどな」
「パン太言うなよ」
「で、何の用なんだ?」
「…私がここに来たのはハーデス様のご命令だ」
好き勝手言う皆に少しばかりムッとしつつ、オネイロスは持参した箱をテーブルに並べて蓋を開けた。
何だそれ?と箱の中身を覗き込んだ一同は意外そうな顔になった。…箱の中にはドーナツやカップケーキ、ショートケーキがずらりと並んでいる。しかも、どれもこれも『素人のお手製』感が満載だ。
皆の視線を集めたオネイロスは淡々と口を開いた。
「お前達には、これの味見をしてもらいたい。そして忌憚の無い感想を聞かせて欲しい。まずければまずいと言って構わぬ」
「へ?」
「何じゃそりゃ」
「つーかこれ、誰が作ったんだ?いかにも素人が作りましたって感じだけど」
「…………」
オネイロスは無言で箱をテーブルの中央に押しやった。
いいから食べて感想を言えということらしい。
一同は怪訝そうな顔を見合わせつつ、それぞれにドーナツやケーキに手を伸ばして食べ始めた。
「うん、普通にうまい」
「お菓子作りが趣味のお母さんが作ったお菓子、って味だな」
「スーパーで売っているお菓子よりずっと美味しいと思うわ。流石にプロの味には負けるけど」
「何だかこれ、ヘカーテ様お手製のお菓子と良く似た味がしますね。ヘカーテ様のお菓子はもっとこう…プロに近いレベルですけど」
「とっても優しい味だね」
「そうか。出来に問題はないということだな」
ホッとした様子のオネイロスにマニゴルドが尋ねた。
「で?このドーナツやケーキが何なんだ?」
「実は、この菓子を作られたのはハーデス様だ」
「え?」
「へ?」
「まぁ」
「『今年は余がタナトスヒュプノスのためにバースデーケーキを作る!』と宣言されて、先月からヘカーテ様についてみっちりと菓子作りの特訓をされているのだ。我々や冥闘士達も味見をしていたのだが、連日のように幾つも菓子を食べていると味覚が麻痺してきてな。現時点での菓子が美味いのか不味いのか分からなくなってきたので、第三者の意見を聞いて来いとハーデス様に命じられたのだ」
「ああ、なるほど…」
「毎日毎日ビミョーな味の物ばっかり食ってたら、ビミョーちょい上の味でも美味く感じちゃったりするもんなぁ」
「ま、このクオリティなら問題ないと思うぜ」
「うん、美味しかったね」
「きっとタナトスサマもヒュプノスサマも大喜びだぜ」
「そうか、ならば安心だ。ハーデス様にはそのようにお伝えするとしよう」
皆のコメントに漸く安堵の笑顔を見せて、オネイロスは神の道の通行証を人数分置いて冥界へと帰っていった。